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01.「持つことかあることか」クリックするとこの随筆を閉じます。
「持つことかあることか」という変な題を付けたのであるが、これは、最近、ふとした機会に知ることとなり、興味を持ち、読んでいるエーリッヒ・フロム著、佐野哲郎訳「生きるということ」の原題「To have or to be」を直訳したものです。「持つこと」とは、財産や知識、社会的地位や権力を持つことで、「あること」とは、社会の中で自分のあることを意識し、自分の能力を能動的に発揮し、生きる喜びを確信するというものです。この本では、この両者について、宗教的、哲学的にその意義を検証しています。この本を読んでいて、ふと、橋本先生のお母様のお葬式のことを思い出しました。
  15-6年前になるでしょうか。岡山で開かれていた日本腎臓学会の3日目の朝、会場で呼び出しを受けまして、医局からの電話でお母様の亡くなられたことを知りました。すぐ、高知に帰りまして医局より連絡の必要な方への連絡などに追われました。翌日でしたか、さらに次の日でしたか、定かではないのですが、お葬式に参列するために、橋本先生の実家のある岡山県高梁市に朝一番で向いました。昼前にお葬式の会場に着きました。会場は、川沿いに桜並木のある傍らの古い小さな教会でした。お葬式は、午後から始まりました。始めに讃美歌「いつくしみきふかき(讃美歌第312番)」で始まりました。橋本先生が大きく口をあけて歌われているのを見て、先生が子供の頃から、この教会でこのような讃美歌を歌われていたことが想像され、この古い教会に橋本先生の原点があるような気持ちがしました。次に若い牧師さん(確か森牧師といわれたように思いますが)のお話がありました。お母様は学校の先生をしながら、立派にお子様方を育てられ、お子様方が巣立った後、ご自身も定年でお仕事を終えられたそうです。その後は、教会の奉仕活動に積極的に参加されたそうです。中でも協会のミサに参列出来ない入院中や自宅で病床に臥す信者の方のところへ若い牧師を連れていって、その場でミサを行ったそうです。このミサは、病床に臥し、死の不安と闘っている人々にとって、どれだけ心の平安を取り戻されたかは想像にかたくありません。そして、お母様の遺言の最後の言葉が、「私は、いろいろな罪を犯しました。どうぞ神様、天国の扉を開けておいて下さい。」であったことが若い牧師さんから、静かに語られました。私は、その時に何とも言えない感動を覚え、涙を流していました。その時、私は、世の中には、いろいろなところに立派な人はいるものだと感じました。帰りの電車の中でもその事が頭を離れずになぜ、こんなに感動するのだろうと考えていました。救いを求める人がいて、それを手助けしようとする人がいる。そして、その手助けをする行為に何も求めず謙虚に社会において与えられた自分の役割や存在を認識し喜びとするという非常に単純なことを続けられていたこと、その崇高さが感動をもたらしたのだと思っています。この中には、財産、社会的地位、権力などの要素は何も存在しないのです。これが生きるということでないか思います。 ですから、前述の本の中でも述べられているように、財産、社会的地位、権力を「持つこと」は生きる目的にならないのです。自分の能力、立場において出来ることを一生懸命行い、社会の中に自分の役割や存在(「あること」)を意識し、その中に生きる喜びを見出すことを生きる目的とすることが大切であると感じています。このことは、橋本先生のお母様の葬儀に参列してお母様の生き方から教えられたと思います。権力争いやマネーゲームが横行し、お金、力、第一主義の風潮が主流を占める現代において、このことはいつまでも心に留めておく必要があると考えています。

02.「 涙の止まる薬 クリックするとこの随筆を閉じます。
  町医者生活を始めて、 12 年目になりますが、時折、びっくりするような事を患者さんから言われることがあります。約 5 年前、 M さんから突然、「涙の止まる薬を下さい。」と言われてびっくりしたことがあります。 M さんは、 70 歳代の女性で、ご主人を急に亡くされてから、いつも仏壇の前に座って泣いているとのことでした。戦後、ご主人と二人で会社を興されて一生懸命働いてきたようです。ご主人は、心臓が悪くて精密検査の必要を言われていた直後のことで、朝、寝室で倒れて、 M さんが救急車を呼んで、病院に運びましたが、もう亡くなられていたようです。  
  私は、 M さんから「涙の止まる薬」を下さいと言われてから、「涙の止まる薬」は何であろうかとしばらく考えていました。夫婦が二人で頑張り、お子さん達が幼く可愛かった頃の楽しい思い出が浮かび上がってくる薬なのか、天国でご主人が既に亡くなられている親しい友人やご主人の両親などと笑顔で楽しく暮らしている姿がみえる薬なのか、そんな他愛のないことを考えていました。時が経つに連れて少しずつお元気になられたので、時間が「涙を止める薬」なのだと自分なりに納得していました。おおよそ 1 年前でしょうか、 M さんがお孫さんと思われる 3 歳くらいの女の子と手をつないで明るい笑顔で歩いているところを見かけました。その時、ふと、お孫さんの生きる力が、 M さんに生きる力を与えているのではないかと感じました。  
  昨年 8 月、 K さんが M さんと同じように「涙の止まる薬」を下さいと言ってきました。 K さんも M さんと同じ 70 歳代の女性ですが、外来受診の直前に、今まで大きな病気もなく、とても元気に暮らしていたご主人が階段から落ちて脳外傷で亡くなったとのことでした。大きな音がしたので、階段のところへ行ってみると、頭から血を流して、ご主人が倒れていて、救急車を呼び、日赤病院へ運ばれたが、どうもいけなかったようです。外来でこのようなことを涙ながらに言った後に「涙の止まる薬」を下さいと言いました。私は、 M さんのこともありましたので「日日薬(ひにちぐすり)ですよ。時間が涙を止めてくれますよ。今は、泣けるだけ泣いてみたらどうですか。」と言いました。精神的に不安定な時期もあったようですが、時間とともに少しずつ落ち着いてきました。先だってのこと、「千の風になって」の CD を聞いたらと家族に勧められていますが、まだ、聞いていませんとのことでした。「千の風になって」は、昨年の紅白歌合戦で歌われて、よく知られるようになってきました。ニューヨークの 9/11 テロの際に亡くなられた消防士の娘さんが慰霊祭の時にこの詩を読み、また、ロンドンのテロで亡くなられた遺族の方がこの詩を読み、世界的にも愛されている詩です。誰が作ったのかは不明ですが、日本語訳は、岩井 満さんが行い、詩に曲をつけています。亡くなった人は、お墓の下で眠っているのではなく、千の風になって大空を吹き渡っており、残された家族をいつまでも見守っているという内容です。日本古来の神道に近い非常に東洋的な考え方で日本人には、とても受け入れやすいように思います。 K さんに是非「千の風になって」を聞いてみたらと勧めています。  
  「涙を止める薬」、つまり非常に大きな悲しみを受けた人を癒す薬は、普段は余り意識することのない時間、自分の DNA が次世代にも生き続けているという喜び、亡くなった人はいつもそばにいて見守ってくれているのだという気持ちなどでないかと感じます。
  患者さんの持っている大きな悲しみや苦しみに対して、医師として十分なことは出来ていないと思いますが、日常の診療を通して、患者さんの悲しみや苦しみが少しでも軽くなればと考えている町医者生活の日々です。

03.「 高橋先生 」クリックするとこの随筆を閉じます。
 一.
 高橋徳太郎、大正八年生まれ、八四歳、職業医師、職業柄高橋先生とか先生とか呼ばれ、妻泰子と高知城近くに住んでいます。高橋先生の一日は、朝五時三十分よりの散歩で始まります。朝五時起床、トイレを済ませ、一杯の水を飲み、スポーツウエアに着替え、玄関の靴箱の上に置いてあるラジオ、三千円入りの財布、連絡先を書いたネームカードを持ち散歩に出掛けます。先生は四十年以上続けてきた散歩にこだわって続けています。何があってもタクシーで帰れるように財布とネームカードを持って行くようにしているのです。自宅を出て、高知城の周りをFM放送から流れるバロック音楽を聴きながら約一時間歩きます。途中の八幡様ではいつも家族全員の健康を祈って手を合わせます。この辺りでは、先生の散歩は散歩仲間でも有名で途中で、すれ違う人達は大きな声で笑って挨拶をしてくれます。公園では、おおよそ二十分お決まりの体操をして、七時に帰宅します。帰宅後は、まず、一杯の野菜ジュースを飲み、体重を測り、風呂へ入り、身支度を整えて、朝食です。朝食は、茶碗一杯のご飯、半身の焼き魚、野菜、野菜一杯の味噌汁、漬け物少々です。これも四十年以上変わりがありません。
  先生は、十年前に息子の陽一先生に三十年間やっていた診療所を譲り、近くの吉村病院で頼まれて診療をしています。八時に迎えの車が来るので、歯磨き、用便を済ませ、新聞を読みながら、車の到着を待ちます。病院までの車の中では、馴染みの運転手とたわいのない話をして、十分程で病院に着きます。病院では、先生の診察の介助をしてくれる老婦長が、玄関まで迎えてくれて、三階の診察室まで案内してくれます。担当は、痴呆病棟の患者さんと近くのグループホームで暮らしている痴呆の患者さん達です。歩ける患者さんは歩いて、車椅子の患者さんは車椅子で先生の診察室に集まってきます。先生の診察は、「調子はいかがかな?」で始まり、聴診器で胸部の診察をして、血圧を測り、「大丈夫。」と大きな声で言って終わります。患者さんは、この声を聴くと急ににこにこして、いろいろな話を始めます。多くの話は、最近の世の中は人情が悪いとか、子供を親が虐待するということは猿以下になったとか、最近の世の中に対する不満とか、自分の若かった頃の自慢話とか、太平洋戦争前後に苦労をして子供を育てた話とか、その子供の自慢話とか、戦争で外地へ行っていて苦労した話などです。実は先生も軍医として中国を転戦し、苦労して帰ってきた経験を持っているので、ついつい長話となるのですが、後ろに老婦長がいて、おおよそ十分で話を切ってくれます。ところが池田さんとの話は先生のお気に入りでついつい長い話になりがちです。池田さんが大戦中、航空母艦「赤城」の機関兵として従軍していて、真珠湾攻撃に参加したことやミッドウエー海戦で撃沈され、九死に一生を得た話や多くの戦友を「海ゆかば」で送った話などです。最後はいつも自分も海軍軍人として「海ゆかば」で送られて死にたいと言って終わります。池田さんは、戦後、小さな工具店を営んでいたのですが、酒も煙草も嗜まず、ただ家族のためにと一生懸命働かれていたようです。郡部に僅かの品物を届けに行き、夜遅くになることもしばしばであったようです。でもどんな苦しい時でも、心の中では「赤城」での苦労や亡くなった戦友のことを思えば、こんな苦労は大きなことではないと思って頑張っていたようです。奥さんの話では、今まで、戦争に行っていた話しはあまりしなかったのですが、三年前、この病気になってからは、この話ばかりだったそうです。実は、池田さんをはじめとして患者さんはいつも同じ話をしているのですが、先生はいつもにこにこして患者さんの話を楽しそうに聴いています。介助をしている老婦長も慣れたもので、話を終わらせるこつを知っていて、話を終わらせるのは得意中の得意といったところです。特別のことがない限り先生が新しくお薬を出すことはありません。そのようにしておおよそ午前中に十人の患者さんの診察をして、医員室の食堂で、若い先生と昼食を食べます。昼食後は、簡易ベッドでおおよそ一時間の昼寝をして午後の診療に備えます。
  午後の診療は、先生が吉村病院に取り入れた音楽療法の時間です。談話室に患者さんが集まってきて、舞台にあるラジオカセットを囲んで半円形に椅子や車椅子に座って準備完了です。先生は、おもむろに舞台に上がり、「只今から、音楽会を開始します。」と大声で宣誓し、ラジオカセットのスイッチが入れます。ラジオカセットから流れてくる文部省唱歌、懐かしい叙情歌、戦後すぐラジオから流れていたラジオ歌謡などに合わせて先生、患者さん、スタッフが大きな声を出して歌うのです。おおよそ二十分歌って、少し休憩をして、椅子や車椅子で出来る手ぬぐい体操をして、もう二十分歌います。最後は、いつものことですが、患者さんよりのリクエストで先生が十八番である「ふるさと」を歌います。先生がテノールで「うさぎ追いし故郷・・・」と歌い出しますと談話室はシーンと静かになり、先生の歌に患者さんもスタッフも引き込まれてしまいます。患者さんの中には自分の生まれ育った故郷を思い出すのでしょうか涙するものまで現れるのです。先生は大きな拍手に満足そうににこにこ顔で「これで、今日の音楽会を終了します。お疲れさま。」と大きな声で宣言して、音楽会は終わります。先生は老婦長の手配した帰りの車に乗り、午後四時頃には、見送りを受けて自宅に帰ります。
  老婦長は、先生をお見送りした後、廊下を歩きながら先生が痴呆の患者さんの診察や音楽療法を始めて患者さんの夜間徘徊などの問題行動がめっきり少なくなっていることの理由をふと考えてしまいます。患者さんの記憶力などの病状に余り大きな変化はないのですが、これ程、問題行動が減っているということは先生が患者さんのストレスや不安を取り除いているのではないかと思っています。痴呆が大きな問題となるのは患者さん自身の問題よりむしろ患者さんを取り巻く環境が、患者さんに不安やストレスを与え、患者さんにいろいろな問題行動を起こさせている可能性を考えてしまいます。痴呆は患者さんの問題よりもむしろ老人の独り暮らしなどを余儀なくさせている現代社会の問題でないかとも考えるようになっています。
  自宅に戻った先生は、少し休憩をして夕食までの時間を城西公園で散歩をします。今の季節ですと、睡蓮のうす紅色の花がお気にいりで池の畔でしばらく佇んでいます。散歩から帰ると風呂に入り、夕食です。夕食には缶ビールを一本飲むのが、一番の楽しみです。ニュースを見ながら食事を済ませると自分の部屋に入り、大好きなクラシック音楽を聴きます。いろいろな作品を聴きますが、聴力を失い生きることに苦悩していた晩期のベートベンの作品や深い寂寥感を表わすバックハウスの弾くピアノ曲が大好きです。そして、十時過ぎには、床に着きます。

 二.
  毎月第二火曜日の午前中は、近くの神経内科の吉田先生の診察を受けるために出かけます。実は、先生は、かれこれ一年前に軽度の老年痴呆と診断され、定期的な診察と薬をもらっているのです。今日は、その診察を受ける日なのです。吉田先生は五十歳過ぎの女医先生です。いつもにこにこしながら、診察をしてくれます。
「ご機嫌はいかがですか?」
「あまり、変わりはないです。」
「吉村病院の方は行かれていますか?」
「変わらずに行っています。」
「少しテストをさせてもらっていいですか。お歳はいくつですか?」
「八十四歳です。」
「今日は、何年の何月何日何曜日ですか?」
「平成十六年九月七日火曜日です。」
  ・・・・・・・・・・・・・・・・
  このような質問をくり返しながら、診察が進んでいくのですが、先生は、百から七を引く計算とか四桁の数字の逆唱とか品物の名前を覚えておくことが苦手です。
「今日のテストは、二十二点ですね。この一年は余り変化がありませんね。お薬の効果が出ているように思います。お薬を続けておきますので、来月、また診察にお越し下さい。」と笑顔で見送って下さいます。診療所を出ていつも先生は、泰子夫人に「年がよると、忘れないと頭が一杯になってパンクするからね。」と笑顔で語りかけます。泰子夫人も「そうですよ。そうですよ。忘れないと大変ですからね。」と笑顔で答えます。
  最初の吉田先生の診察の時も同じようなテストを受けたのですが、少し緊張もあってなかなか上手くいかずに、点数が二十点だったのです。「正常と軽度痴呆の境界ですね。一度CT検査をしてみましょう。」ということでCT検査もしたのですが、「明らかな異常はありません。しかし、今後のことを考えて念のためにお薬は飲んでおいたほうがよいのではないでしょうか。」ということでお薬を飲み始めたのです。先生ご自身は、こんな数分のテストで重大な病気を診断してよいものか、もう少しデリカシーを持った診断があるのではないかと思っていました。自分としては、周りの人に迷惑をかけているという意識もありませんし、日常生活も今まで通り何の問題もなく行っているのですから少し物忘れがひどい正常下限と思っていました。しかし、今後、妻や息子に迷惑をかけたらいけないという思いが強く薬を飲むことにしたのです。
  泰子夫人は、先生が日常生活も病気の起こる前と変わらず、出来るだけ不安やストレスのない生活を送れるように心掛けています。吉村病院へ行って診察をしているのも、家に閉じこもってばかりではいけないということでリハビリテーションを兼ねて始まったことなのです。

 三.
 九月のある日、先生が午前の診察が終わって池田さんが来ていないことに気がつきました。老婦長に「池田さんはどうしたのだろう?」と聞くと、「今朝、便所で池田さんが意識不明で倒れていて、今は救急処置室で治療を受けています。」とのことでした。先生は老婦長に案内されて、救急処置室へ行きました。池田さんは、意識がほとんどない状態でベッドに横たわり、酸素吸入、点滴などを受けていました。全身状態は安定しているようでした。ベッドの傍らには、池田さんの奥さんと娘さんが居て先生をみて、「いつもお世話になっています。」と深々と頭を下げました。吉村先生の話しですと、左中大脳動脈の起始部の脳梗塞で病変は広いとのことでした。その日から先生は、朝の散歩の途中の八幡様でのお祈りに池田さんの無事な回復を加えるようにしました。先生は、毎回午前の診察が終わると老婦長と一緒に池田さんの部屋を訪ねていました。一週間も経つと酸素吸入もはずれ、意識も少し改善しているようでした。奥さんが一生懸命、「高橋先生が来てくれましたよ。」と言うのでしたが、池田さんは先生が誰だか分からないようでした。それでも先生は、池田さんの手を握り「高橋、高橋だよ。随分良くなったよ。頑張りなさいよ。また、来るからね。」と言って、部屋を出ました。次の週には、言葉は不自由でしたが、意識は回復していて、先生も一安心というところでした。その次の週には、一般病棟に戻っていて、車椅子に乗ってリハビリを始めていました。言葉は喋れませんが、先生が車椅子の所へやってきて、「高橋だよ。分かるかな。」と話しかけると、「うん。うん。」と頷き、先生のことが分かっているようでした。「リハビリ、頑張りなさいよ。」と先生が池田さんの手を握ると再び「うん。うん。」と頷きながら、大粒の涙を流しました。老婦長も後ろの方で泣いているようでした。
  それから、二週間ほど経った頃です。朝、先生が病院に着くと、老婦長が「池田さんが今朝、再発作を起こして、重体となっています。」と伝えてくれました。先生は、すぐ、病室に向かいました。池田さんは、意識はなく、酸素マスクをしていましたが、呼吸状態が悪く非常に重篤な状態でした。奥さんは、状況を察しているらしく、「今、息子と娘に連絡した。」とのことでした。先生は午前の診察が終わり、再び病室を訪ねました。病室では、吉村先生が深刻な顔をして、点滴の指示をしていましたが、少しずつ血圧が下がっているようでした。病室には、奥さん、息子さん夫婦、娘さん夫婦が揃っていましたが、覚悟を決めているようでした。午後の診察の始まる前に、老婦長から、「今、池田さんがお亡くなりになりました。」と伝えられました。先生はすぐに病室を訪ねました。病室では、奥さんが池田さんの消えゆく肌の温もりを惜しむように胸のあたりをさすりながら、「お父さん、お父さん。長い間ご苦労さまでした。本当に、本当に有難うございました。」と呼びかけながら、泣いていました。しばらくして先生が部屋に入りますと、奥さん、息子さん夫婦、娘さん夫婦は、「本当に、本当にお世話になりました。」と深々と頭を下げました。先生は、池田さんの顔に掛けられている白い布をとり、「安らかな本当にいい顔をしていますね。」と一言言い、両手を合わせて長い間お祈りをいたしました。そして、一歩下がり、直立不動で、敬礼をしたまま、「海ゆかば、水漬かく屍、山ゆかば、草蒸す屍、大君の邊にこそ死なめ、かへりみはせじ」と歌い始めました。歌い終わり、ご家族にも、直立不動で敬礼をした後、病室を出ました。老婦長は、病室を出た後、「池田さんは、海軍軍人として生き、旅立たれましたね。」と呟きました。

 四.
 池田さんがお亡くなりになって、しばらく経ってのことでした。先生は、左腕を動かした時に、左の胸に軽い痛みを覚えました。少し気になったもので、吉村先生にお願いして、胸部のレントゲンを撮ってもらうことにしました。レントゲンを撮って、吉村先生の診察室に入ると、吉村先生の顔が青ざめていました。レントゲン写真には、左の上葉に二センチ大の腫瘍陰影がありました。先生にも、これは、良くないものであることは、すぐに分かりました。吉村先生は、すぐに「CT検査で、さらに精密検査をしましょう。」ということで、CT検査が行われました。先生は、ついに来るべきものが来たかという感じを持っていました。吉村先生は、すぐに陽一先生に電話をして、その旨を話し、診察の終了後に病院に来ていただきたいと伝えました。診察の終わった診察室に、先生、泰子夫人、陽一先生が集まり、吉村先生から、説明を受けました。「レントゲン写真では、左上葉に径二センチ大の腫瘍陰影があり、CT検査では、肺門部のリンパ節も腫れており、転移が考えられ、末期の肺癌の可能性の高いと思います。今後、確定診断のための精密検査をして、その後、化学療法を行うのが一般的です。今はいい薬も出来ていますので、治癒の可能性も全くないことはありません。今後のことについては、皆さんでよく話し合って決めていただきたい。」とのことでした。陽一先生の車で、自宅まで送ってもらったのですが、車の中は無言で重苦しい空気がたちこめ、泰子夫人のすすり泣く声だけが響いていました。自宅に着き、陽一先生は「どうするの?」と先生に尋ねると、先生は、「このままでいいよ。自分も十分に年もとったし、これ以上長生きすると余計に迷惑をかけそうだしね。陽一も孫達も元気ですくすく育っているようだし、余り思い残すこともないしね。そして忘れてはいけないことだが、人間は必ず死ぬということだよ。だから私も必ず死ぬのだよ。その人間の生物としての定めを受け容れなくてはいけないよ。ただ、陽一にお願いしたいことは、お母さんのことをくれぐれも宜しく頼むよ。そして、末期になって私が痛みとか苦しみで、見苦しい我儘が出るようなら、鎮静剤で眠らせて欲しい。出来るだけ自然な形で死なせてほしい。そして、これからずっと、家族の皆が仲良く争いごとなく暮らしてほしい。そして時間があったら、お墓に来て、いろんなことを報告してくれ。それで、十分だ。」と結びました。泰子夫人は、「私は出来るだけ長くお父さんと一緒に暮らしたいのよ。もっともっと長くお世話をしたいのよ。吉村先生もいい薬が出来ているから、治る可能性もあるといったじゃないですか。検査を受けて、治療を受けましょう。」と泣きながら先生に訴えましたが、先生は、「これでいいのだ。それよりこれからの一日、一日を大切に暮らそうじゃないか。それでいいじゃないか。」と話を打ち切りました。
  陽一先生が帰り、泰子夫人との夕食は、一言もなく重苦しい雰囲気で済みました。夕食後、先生は、珍しく、スコッチのオンザロックを片手に書斎に入りました。そして、JSバッハが、最晩年、不自由な目の中で、生命の灯火を灯すように作曲したとされる「ミサ曲ロ短調」を聴きました。スコッチを一気に飲みながら、荘厳な音楽を聴き始めますと、今まで、平気な顔をして強がっていたのですが、体の力が抜け、次から次に涙がこぼれて嗚咽が止まりませんでした。自分が幼かった頃の若かった父や母の顔、父の赴任先の田舎で妹と雪遊びをした光景、泰子夫人との結婚式、陽一先生が産まれた日、陽一先生が大学入試に合格した時、父、母が亡くなった時などいろいろな思い出が走馬灯のようにぐるぐると頭の中をめぐりました。そして、自分の葬式の光景までも頭に浮かんでいました。いつの間にか、泣き疲れて、椅子の上で眠っていました。そのままベッドに入ったのですが、なぜか興奮していて、眠れませんでした。そこで先生は一番大好きなベートベン作曲「交響曲第九番」の第三楽章をかけました。先生はこの曲の中に人間の求めるべき理想郷のようなものを感じていました。次第に心が落ち着いてきて、「自分の出来ることを精一杯やって、役目が終われば、その後のことは、神様が上手くやってくれるだろう。」と独り言を言って休みました。
  次ぎの日の朝、先生は昨日のことはすっかり忘れているようでした。泰子夫人は、心配したのですが、いつものごとく五時三十分より、散歩に出かけました。八幡様では、いつものお祈りの最後に「最後の最後まで、高橋らしく生きさせて下さい。」という言葉を足しました。いつものごとく朝食をとり、いつものごとく吉村病院に出かけ、いつものごとくにこにこ顔で診察をして、午後には、いつものごとく音楽会をして、老婦長の見送りを受け、自宅に帰りました。ただ先生は、残された日の少ないことを知ってから一日一日を大切に生きるように心掛けるようになりました。
  翌日の夕方、陽一先生は、吉村先生を訪ね、「このままで特別な検査もせずに、特別な治療もせずに自然に経過をみてほしい。」と伝えました。吉村先生は、先生のことを心配して、「精神的に落ち込んでいませんか?」と聞きますと陽一先生は、「私には、あまり動揺がないようにみえますが、実際はどうか分かりません。私の印象では、少し痴呆があることが、死に対する恐怖とか恐れを少し鈍感にさせているように思います。そういう意味で、痴呆というのは、自分の死に対する備えの一つなのかもしれませんね。ただ、今後、病状が進行いたしますと、いろいろとご迷惑をおかけすることになりますが、宜しくお願いします。」と答えました。吉村先生も納得して、「最後の最後まで、先生らしく堂々と生きていただくように努力いたします。」と答えました。
  それからも先生の日課には大きな変化はなく、朝の散歩、吉村病院での診察や音楽会は続いています。ただ老婦長は、この件があってから、先生の患者さんや周囲の人に接する態度が今まで以上に優しく慈愛に満ちているように思われてなりませんでした。いつものように先生を玄関でお見送りをした後、廊下で吉村先生に「高橋先生の調子はどうですか?」と訊ねられて、老婦長は、「先生はいつも以上にお元気です。以前よりもっと熱心に診察をされています。私は先生が一日一日仏様に近づいていらっしゃるように感じてなりません。患者さんの苦難をご自身の中に受け容れられて、どんな苦難にも平気で生きていらっしゃるように思います。」と答えました。
 
  次の日の朝も何ごとも無かったように、先生の散歩が続き時間が流れています。

04.「 四季 」クリックするとこの随筆を閉じます。
 一章 秋
 秋は、私の心が揺れる季節です。私の朝の日課に散歩があります。散歩をしていますとさまざまな自然の恵みに出会います。  まずは、この季節の朝焼けの美しさです。空気が透き通っているので、美しいのでしょうか、毎朝、毎朝、雲の状態などによっていろんな朝焼けをみせてくれます。時には赤く、時には青紫に染まります。そして、時間がゆっくりと流れ、夜が明けはじめますと徐々になごり惜しそうに美しい色を薄くしていきます。この穏やかな静かなうつろいが素敵です。  次に、秋は、季節の移り変わりをいろんな景色より感じることが出来る季節です。県庁前の銀杏の葉は、緑と黄色の丁度まん中です。朝、朝に少しずつ色を黄色に変えています。少し肌寒い朝は、少しスピードが速いかもしれません。この変化も微妙ですが、気をつけてみるのも楽しみです。この時期に最も変化しているのは桜でないしょうか。今、桜の葉は紅葉して、少しずつを落ちています。桜馬場の桜並木を歩いていますと目の前を桜の葉が一枚また一枚と回転しながら落ちていきます。何となく自分の身体の一部が落ちていくような哀しい光景です。桜の木は、来るべき厳しい冬に向かって、少しずつ葉を落として準備をしているのです。そして、落ちた葉は、木の根元で春の若葉が成長するための養分となるのです。  私は、散歩の時にバロック音楽を聴いています。これらの秋を感じながらチェンバロやフルートの調べを聴いていますと、何となく哀しい気分になります。こういうことを「秋思」というのではないでしょうか。「秋思」とは、「秋の頃、心に感じ思うこと」とされています。秋は人に物思いのかぎりをつくさせ、人生の寂しさ、人間の存在の哀れさに触れることの多い季節です。散歩でみる光景にこんなことを感じるようになってきたのも年齢のなせる技なのかもしれません  今晩は、「枯れ葉」を聴いて秋の夜長を物思いに耽ります。

 二章 冬
 冬の日の午後でした。警察署より、電話があり、当院に通院中のTさんがアパートで亡くなっているのが発見されたとのことでした。病状などについて、質問がありお答えいたしました。いつも診察日には、きちんと診察にこられるTさんが診察に来られないのが、胸の奥に引かかっていたのですが、そのままになっていました。Tさんとは、かれこれ十五年のおつきあいということになります。夕方に市の福祉事務所の担当の方に連絡をしたところ、「娘さんの居所も分からず、親戚の方もご遺体の引き取りを拒否しています。一応、もう一度、ご親戚の方に連絡をして、引き取っていただけないようでしたら、市の方で無縁仏として葬らせていただきます。」とのことでした。その電話を聞きながら、とても悲しい気分になりました。一つには、そんな寂しい生活をしていたTさんの気持ちを私が全然理解していなかったことです。しかも十五年もです。そして、亡くなった後、お墓に永遠に誰もお詣りに来ないのではないか、今までTさんが生きていたことさえ誰の記憶からも消えてしまうのではないかと感じたからです。人が生きていくうえの支えの一つに自分の肉体が無くなっても、お墓の堅い墓石に自分の名前が刻まれ、お盆やお正月には、自分の子供や孫、その子孫がお詣りに来てくれて私の名前や生きていたことをいつまでも忘れないでいてくれるというのがあるのではないでしょうか。つまり、自分の存在の永遠性を信じることです。そのことがないことの寂しさはいかばかりでしょう。  私はその夜、自分なりにTさんとのお別れやお詫びをして、Tさんの魂の安からんことを祈り、モンテヴェルデイ作曲「聖母マリアの夕べの祈り」の最終章でルカ福音書を歌詞としている「マニフィカト」を聴きました。そして、私の大好きなベートーヴェン作曲交響曲第九番第三楽章を聴きました。その途中で不覚にもうたた寝をしてしまいましたが、夢の中でTさんが小さなお子さんと手をつないで、笑顔で白い花が咲いている野原を走っている姿をみました。窓の外では、木枯らしが吹いていました。

 三章 春
 春の日の午後、救急隊より電話がありました。当院に通院中のWさんが街で倒れているとのことで、今後の処置に対する助言の要請でした。私は、高知赤十字病院に搬送を依頼し、担当医に宛てて紹介状を書き、ファックスで送信いたしました。担当医とも連絡がつき、これから頚部の動脈の狭くなっているところを手術するとのことでした。次の日に病院に行き、入院中のWさんを診察しました。意識は、ほとんどない状態でしたが、全身状態は安定しているようでした。手術の承諾書は、ケースワーカーの立ち会いのもとに、ご自身で書かれたそうです。ケースワーカーに話されたことによると、家族は、離婚された奥さんとお子さんがいるようですが、連絡はしないでほしいとのことでした。次の週に診察に行った時は、酸素吸入もはずれ、意識も少し回復しているようでしたが、ご自身でいろいろな事を判断出来る状態ではありませんでした。今後の年金の受け取りや介護保険の申請の問題などが出てまいりました。ケースワーカーに聞いても、このような例でいろんな問題を代理でやってくれるような制度はなさそうですとのことでした。私も市の福祉事務所に聞いてみましたが、やはり、そのような制度はなく、個人のプライバシーや意志が尊重されるとのことでした。次の週に病院を訪ねた時は、言葉は不自由のようでしたが、かなり意識も回復してきていて、私も一安心といったところでした。その次の週には、一般病棟に転棟していて、車椅子に座っていて、私のことも覚えていて下さいました。そして、自分の意志も伝えられるようになっていました。ケースワーカーの話しでは、ご本人と話しをして、お子さんに連絡してほしいとのことで、お子さんに連絡したようです。早速、二九歳の息子さんが病室に駆け付けて約二十年ぶりの再開で、親子が手を取り合ってお互いに涙、涙であったようです。その後も息子さんは、夜には、病室を訪ね、また、いろんな手続きもやってくれているとのことでした。本当にうれしいことでした。病院よりの帰り道、川べりの白木蓮が風に心地よく揺れていました。

 四章 夏
 夏の日の夕方のことです。夕刊をみていて、私の長男の同級生であるK君が交通事故で意識不明の重体であるという記事を見つけました。先立って、K君は私の診療所に健康診断のため、来院していました。黒いスーツ姿で髪も整えられ、きちんと挨拶をして、随分大人になったものだと感心していた矢先のことでした。  K君のお母さんと懇意にしていただいている妻に連絡をしましたが、「えー。」と言ったきり、次の言葉は出てきませんでした。しばらくして、お亡くなりになられたとの連絡があったようです。二三歳です。雨の朝、学校へバイクで行く途中、一時停止しているトラックの荷台に追突したようです。   ベートーヴェンの「運命」の主題である「ダア、ダア、ダア、ダアーン。」というのは、運命が、家の門を叩く時の音だと説明されています。本当に運命とは、このように思いかけず突然訪れるのでしょうか。K君が亡くなられてから、お葬式までの四日間は、ずっと雨が降り続けていました。その四日間、雨の中で朝の散歩をしながらこれは、ご両親が流されている涙であると感じ続けていました。ラジオからミサ曲が流れていましたが、歩きながら、K君のご冥福とご両親の心が少しでも癒されますことを念じ続けていました。  ヨーロッパでは、子供を亡くした母親の哀しみを表現するものとして、イエス・キリストが処刑された横で佇む聖母マリアの哀しみを歌ったものがたくさん残っています。その代表的なものの一つにベルゴレージ作曲「スターバト・マーテル」があります。この四日間で、この曲を二回聴きました。窓の外は雨の音だけしか聞こえません。その中でこの曲を聴いていますと、言葉は分かりませんが、人間の持つ哀しみの奥深さを感じてしまいます。この曲の最後は、「肉身は、死して朽ちるとも霊魂には天国の栄福をこうむらしめ給え。」と歌われています。  今日、講義のため高知医大へ行く途中に事故現場を通りました。現場には、白い菊の花束が供えられていました。車を運転しながら、涙が出てきました。帰りも同じ道を通りましたが、やはり涙が出てきました。運転しながら、今一度、K君のご冥福とご両親の心が少しでも癒されますことを祈念しながら帰ってきました。  終章 再び秋  季節はずれの暑さが続いていましたが、ここ二、三日は気温も下がり再び秋が巡ってきました。日常的な静かな生活の中に突然、予期せぬ悲しい出来事が起こり心は揺らぎます。この揺らぎを静めるには、やはり静かな一定の時間を必要とします。一方、自然は私の心の揺らぎとは無関係に季節を巡らせ、それぞれの季節の恵みや安らぎを与えてくれます。また、古来よりの素晴らしい音楽は、この揺らぎを静めてくれることの助けとなります。  これからも私は、医師を職業として、巡りゆく季節を感じ、音楽を友として、このような心の揺らぎとそれを静めることをくり返しながら暮らしていくのでしょう。

05.「 ヴィルヘルム・バックハウスの最後の演奏会 」クリックするとこの随筆を閉じます。
 3月も半ばを過ぎてきますと、患者さんの中にも、「この3 月で定年です。」という方がみられます。一つの仕事を大過なくやり通すということがいかにむつかしいことであるかをよく分かりますので「本当にご苦労さまでした。」という言葉をいつも送ります。そんな折りに定年のない自分はどうなるのであろうとふと考えてしまいます。
  先日の日曜日にレコード屋さんで以前から、欲しいと思っていました「ヴィルヘルム・バックハウス/最後のコンサート」というCDを見つけ、買ってまいりました。ご存知と思いますがヴィルヘルム バックハウス(1884-1969)は20世紀の最も偉大なピアニストの一人です。16歳で国際的な活躍をはじめ、若い頃は、「鍵盤の獅子王」と呼ばれ、無類の技巧派として活躍をしていました。年齢を重ねるにつれて、レパートリーもドイツ、オーストリアの作品に絞り、時々の流行を追いかけることもなかったようです。私生活においても酒も煙草も嗜まず、一時期を除いて教職にもつかず、作曲、指揮、著作活動もせず、弟子もとらず、ピアノ演奏一筋に生きたようです。若い頃は、技巧的な演奏であったようですが、やがて完璧なまでの技巧を作曲家の精神、作品の本質に徹底的に迫るという姿勢に変わっていき、その表現は、威厳のある風格と巨大なスケールを持ち、同時に哀愁も感じさせるものです。ベートーヴェンを代表とするドイツ音楽の深い精神性を演奏していると言われています。
  私も彼のベートーヴェンのピアノソナタなどのCDを10枚近く持っています。私が大好きなのは、ベートーヴェンの最後のピアノソナタである32番やモーツアルトの最後のピアノ協奏曲である17番などです。これらの演奏の中からは、ベートーヴェンやモーツアルトが大変な苦しみを乗り越え最後に到達した極致、神に近づいているような清らかで高い精神が伝わってきます。
  バックハウスの最後の演奏会のCDは、2枚組で、1969年6月26日と28日のケルンテン音楽祭でのコンサートの実況録音です。28日のコンサートのリハーサル中にバックハウスは、心臓発作を起こしたのですが、プログラムを変更して28日のコンサートを終え、その7日後に亡くなったのです。一生一演奏家として生きたのです。1枚目の26日の演奏は、今までの演奏とは余り変化は、みられませんでしたが、2枚目の28日の演奏は、何となくそう思って聴いているせいでしょうか、何となく元気はないのですが、シューマン作曲「幻想小曲集 第一曲 夕べに、第三曲 何故に?」を聴くと世俗を超越した高僧が生きることについて淡々と語りかけているような印象を持ちます。
  春の宵、このCDを聴きながら、これからの自分のことをついつい考えてしまいます。

06.「 青洲の里 」クリックするとこの随筆を閉じます。
  「青洲の里」は、世界で初めて全身麻酔薬を創製し、これを数々の外科手術に応用した華岡青洲の生まれ育ったところで、青洲の住居、診療所やその名声を聞き全国より集まった門下生の学び舎「春林軒」のあったところです。現在の和歌山県那賀郡那賀町西野山にあたります。
  私が「青洲の里」を訪ねてみたいと思うようになったのは、二年程前に出版された「高知県医師会史」の中に私の先祖の名前を見つけたことがきっかけでした。「高知県医師会史」には、「華岡青洲と土佐の門下生」という一節があります。そこには、土佐出身の春林軒門下生であった八十七名の氏名が記載されており、その中に私の先祖高松涛亭の名前を見つけたのです。また、天保五年の「奥伝誓約文之事」という麻酔薬「通仙散」の処方を口外しないことの誓約書に高松涛亭の名が記されていることが書かれていました。さらに春林軒に入門した若者達の多くが自費で参加し自炊しながらの勉学で苦労が多かったことなど記されていました。私は子供の頃より、お墓参りの都度に涛亭の話を祖父や父よりくり返し聞かされていましたが、「涛亭さんは偉かった。」というような抽象的なことが多かったように覚えています。成人し、医師になって数年経った頃より、自分の医のルーツがどこにあるのか、涛亭がどこで医学を学んだのかを知りたくなって、シーボルトの鳴滝塾の門下生名簿や緒方洪庵の適塾の門下生名簿などを図書館で調べたりもしていました。華岡青洲については、有吉佐和子女史の「華岡青洲の妻」を映画かテレビでみて、麻酔薬を開発し、初めて妻に試用したという曖昧な記憶とその「春林軒」という塾が、非常に厳しい規則で医師の倫理のあり方を示し、西洋の「ヒポクラテスの倫理」と並び賞されていることしか知りませんでした。しかし、この一節を読んだ時に涛亭をはじめとして、土佐の若者達が最新の医学の勉強や農作業に一生懸命励んでいる姿が目に浮かんできて、どうしてもその地を自分の目で、足で確かめたい気持ちが湧いてきました。
  五月三日午前に高知を立ち、関西空港経由で昼過ぎに和歌山市に着き、JR和歌山線で名手駅を目指しました。列車に乗って十分程経つと、既に市街地を抜け、田園の風景です。この線は、紀ノ川に沿う旧大和街道と並行して走っています。インターネットで調べてみますと、大和街道は、古くは、奈良時代より、奈良、京都と各国を結ぶ道の一つで、この沿線の光景の万葉歌が数多く残されてること、平安時代には、弘法大師がこの街道に足を踏み入れたこと、安土桃山時代には、織田信長がこの地の根来寺を焼き払ったこと、また、江戸時代には、紀州徳川家の参勤交代に通った道で、大変賑わっっていたことなど記されていました。列車は、山とみかん畑の間を走り、少し開けたところには、白壁の土蔵や大きなお屋敷が見えていました。列車は、各駅停車でゆっくりと走り、それぞれの駅前に古い旅館や町並みが見えていました。列車の中で、土佐の若者達がどのようにして、この道を歩いていたのか想像していました。多分、甲浦から船で和歌の浦へ渡り、この大和街道を歩いて行ったのだと思います。高知市より三日くらいの行程でしょうか。当時では、長崎などと比べれば比較的近い距離にあったのではないでしょうか。また、土佐から京都への交通の一つとして、この街道が使われ、青洲の名声もこの街道を伝わって土佐に流れてきたのではないでしょうか。そんな事を考えながら、四十分程で、名手駅に着きました。名手駅は、、駅前に小さなロータリーと数軒のお店がある無人の小さな駅でした。客待ちをしていたタクシーに乗って、「青洲の里」を目指しました。急な山道を登って五分位で着きました。高知市でいうと筆山くらいの小高い山です。そこには、春林軒とフラワーヒルミュージアムが主な建物としてあり、周辺は公園などで花が美しく植えられていました。
  春林軒は、青洲の住居、病院、医学校を兼ねたもので、現在の建物は平成九年にこの地に修理、復元されたものです。主屋を中心に門下生部屋、薬調合所、病室、薪置き場、蔵などが取り囲むように配置されていました。門下生部屋や講義が行われていたと言われている客間を目にしますと百八十年程前に涛亭がいた場所に今、私がいるのだという感慨ときっと医学の修得のために一生懸命頑張って、つらくても生き生きと暮らしていたのだという確信が湧いてきました。それは今、自分の若く燃え滾っていた学生時代、医局員時代を思い出して感じていることと同じものです。春林軒から百メートル位の所にフラワーヒルミュージアムがあり、その展示室には、青洲が使っていた手術器具、愛用の衣服や眼鏡、治療に関する資料、薬用植物の標本などが展示されていました。なにげなく展示物をみていってますと「高知県医師会誌」にあった「奥伝誓約文之事」があり、その筆頭に涛亭の名前が記されているのを見つけました。息が止まり、喜びと驚きで涙が出そうになってしまいました。涛亭の書いた文字がここにある。そして涛亭は確かにここにいたのだという喜びが再び舞い上がってきました。三回ほど展示室を回り、「奥伝誓約文之事」の高松涛亭という文字を、目に焼きつけるまで見て展示室を後にしました。上気した顔を冷やすため喫茶室で飲み物をとり、売店で、「華岡青洲先生ーその業績とひととなりー」という本と青洲が春林軒を卒業して故郷へ帰る門下生に与えたという漢詩の色紙を買ってミュージアムを出ました。五月の空は青く、周りの小さな山には、蜜柑の木が植えられ、遠くには、紀伊山脈の山々が望まれました。何となく去り難く、しばらくベンチに座っていたのですが、ゆっくりと歩いて山を下りることとしました。十分ほどで名手の旧大和街道筋に出ました。白壁の土蔵が並ぶ古い町並みで往時の繁栄が偲ばれました。その中に江戸時代の大庄屋妹背家の住宅があり、紀州藩主の参勤交代の宿舎に使われていたようです。屋敷は、約千坪もある立派なお屋敷で、江戸時代の土佐では、とても造れないようなものです。この辺りは、江戸時代は、紀州徳川家の領地であり、京都、奈良への街道筋ということであれば、かなりの賑わいがあり、経済的にも豊かであったことが考えられました。医学のみに専心する青洲に対して経済的な援助ばかりでなく様々な援助を行っていたのではないか、また、他国出身の貧しい門下生に対しても暖かく迎え入れてくれたのではないかと想像しました。さらに五分程歩くと名手駅でした。列車が来るまでの間、先程買った本を読んでいますと、その本の中に先程の「奥伝誓約文之事」のことが書いてあり、先程、フラワーヒルミュージアムの展示室でみたものが写真として載っていました。高松涛亭の文字があるではないですか。またまた大感激です。この時に感じたことは、本の中に涛亭の名前が残っているということで、今日私が感じた誇りや喜びを医師や薬剤師を目指している自分の子供達に引き継げるという喜びでした。この本の中には、春林軒の塾則も記されていました。その最初に、「修業は一生の大事であるから油断せず一生懸命励まなければならない。そして決して他人から与えられようとせず、自分自身のこととして励まなければならない。」とあります。まさに、今の私自身に投げられかけた言葉のようです。また、色紙として買った青洲より、卒業した門下生に贈られた漢詩は、
  竹屋蕭然鳥雀喧 風光自適臥寒村
  唯思起死回生術 何望軽裘肥馬門
と書かれており、「私の住んでいるこの田舎の村には、鳥や雀が喧しいほど鳴いている。このような自然は何とも言えないくらい私の心情に相応しいものがある。このような日々にあって、ただ思うことは、今までに治せなかった病気を治すことだけである。決して軽い着物を着たり、肥えた馬に乗るなどの贅沢はしたくない。」ということのようです。涛亭もこの言葉を胸にこの地より帰り、私共の故郷である高知県安芸郡安田町、まさに青洲のいう田舎の町で、医師を開業したのでしょう。そして、曾祖父、祖父、父とこの地で医業を続けたのです。非常に分かりやすい行動で誇りにも思えることでした。やがて、列車が来て、和歌山市へ帰りました。列車は、相変わらず各駅に止まりながら、ゆっくりと走っていました。私は、遠くの山々を見つめながら、心の中に「青洲の里」よりの爽やかな風が吹いていることに気付きました。
  今回の旅は、日常の忙しさの中で忘れがちな医の原点、青洲、涛亭、曾祖父、祖父、父と受け継いできた私のルーツを再認識させてくれました。この原点を子供達、その子供達に受け継いでいきたいものと考えています。

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